昭和56年2月12日 朝の御理解             中村良一

御理解 第87節
「腹は借り物というが、借り物ではない。万代の宝じゃ。懐妊の時は、神の氏子がわが胎内におると思うて大切にせよ。」



腹は、万代までの宝を、んー、宿すところだというふうに教えておられます。いわゆる、腹は、万代までの宝だ。あの人は、腹が悪いという風に申します。腹が悪いという事は、どういう事でしょう。私どん、腹が良かけん、何食べたっちゃ当たらんというようなものいう人がある。そういう意味じゃない。ね。何を食べても、腹が良かけん当たらん。ね。腹という事は、心という事だと思うですね。あの人の腹が悪い。臓綿が悪い。いわゆる、あの人は、心が悪いい。心の芯が出来ていないという事になると思うです。
仏教では三宝という。三つの宝と。ね。仏法僧というですね。確かに、宝です。ま、金光教でいうならば、神様、えー、教え、そして取次ぎ者、これがまぁ、仏法僧に当たるでしょうね。私は、それに、いわゆる、自分の腹、ま、いうならば、自分の心を宝にして行くという事なんですから、その、心こそが万代までの宝なんだと。ね。その人の心一つで万代までも続くお徳を、残していくことが出来るというほどしの宝である。腹は宝である。教祖も、そこを、ね。万代までの宝とこういう。いうならば、腹という事を、やはり、心と。まぁ、これは、懐妊のおかげを頂いた、ま、婦人に対する御理解であっただろうと思いますけれども、その教祖のお言葉の意味の深さというものを、ね。腹は万代までの宝というふうに表現しておられる事は、私は、素晴らしいと思う。ね。大体、いわゆる、子供を宿す、その腹が、お腹が万代までの宝ではなくて、ね。その腹、腹とは心。その心そのものが宝。だからその、神の氏子が宿ったと思うて大切にせよと、ね。いうならば、まぁ、今の言葉で言うと胎教という事になるでしょう。ところが、胎教と言うただけでは、ね。言うなら、その、限りないおかげに繋がらない。いわゆる、万代までの宝。ね。腹と表現しておられるところが素晴らしい。腹は万代までの宝である。心は万代までの宝であるという事になるですね。いま、現代風にいうても、なるほど、胎教という事が言われます。ね。だから、いうならば、心を大切にしなければならない。胎内に宿った子供を大切にするという事は、自分の心を大切にするという事である。ね。心は、万代までの宝にして行く手立てが、私は、合楽理念であると思う。ね。
昨日も、もう、それこそ、金はどれだけあるやら分からん。お仕事は繁盛しておる。まぁ、おかげで、みんな健康でもある。というおかげを受けておる人が、久しぶりに参って見えて、昨日、これから、ちっと本気で、えー、本気で、えー、いわゆる、腰を据えて、一つ信心をさせて頂きたいといったようなお届けをされた方が、昨日参ってきた。ね。もう、久しぶりに会いましたが、もう、本当に綺麗なお方でしたけれども、もう、やっぱり、お婆さんという感じ。この頃から、ちょうど、もう一年か二年になりましょうもう、行き遅れてあった娘さんが、お願いをして、おかげを頂いて、ま、良かとこに縁に付かれた。だから、恐らくもう、子供さんも出来ておられるだろうから、まぁ、お婆さん。もう本当に、お婆さん顔であった。綺麗な方でしたけれども、やっぱりお婆さん。ね。心がね、豊かに、心が美しゅうなっていかんとね、あの若い時にはまぁ、化粧でごまかすという事もありますけれども、年をとってまいりますと、その皺がね、本当に尊いものにも、また、嫌な感じにもなってくるです。いうならば、心を大事にしない人はね、年をとって、段々、言うなら、顔も、言うなら、見苦しゅうなっていく。ね。心が豊かに、美しゅうなると、もう、年をとればとるほど、その皺一本一本に、美しさが出てくる。何とも言えん心が、顔に表れてくるのです。その方が、昨日、お届けするように、はぁ、そこに気付いてきた。金はある、物はある、健康でもある。まぁ、恵まれとるけれども、なら、本当の幸せというものは、そういう、いうならば、金とか、物とか、地位とかといったようなものではない事が、少し、分かりかけてこられたという感じ。ね。結局、心を大切にすることの術を覚えなければ、それを、合楽によって、心を、いうならば、向上するというか、豊かに、美しゅうなるという、言うなら、信心の心を作らねばという風に、気付かれたのではなかろうかというふうに。そうですね、もうこれから、一つ本気で、もう、あーた、信心一本に、かけても良いじゃないですかというて、まぁ、話したことでしたけれども、ね。お互い、まぁだ、おかげを頂いて、それこそ、合楽にご縁を頂いた。もう、お参りしようと思うばってん。足が動かんという、体が動かんというようになってからでは出来んですけれども、こうやって、朝参りでも出来ておる時にです。いうならば、心は万代までの宝にしておかなければならないという事です。心を万代までの宝と。うちのお婆ちゃんのご信心の徳によって、うちのお爺さんの信心の徳によって、私どもまでが、こんなに、その余徳に触れる事が出来るんだと。言うなら、子に孫にも、言うなら、何時までも称えられる、私は、心、信心を本気で頂かなければ。いわゆる、本腰を、それこそ、そのお方じゃないけど、本腰を入れて、自分の心に取り組まなければいけないと思う。ね。胎内に子供が宿ったら、言うなら、心に何おかを感じたら、そうだなぁと、本当に、信心の真をいただかにゃ、そして、信心の真を現していかなと、もし感じたならば、その心を、いよいよ育てることに、大切にしていかにゃいけんのです。ただ、なるほどと、合点しただけではいかんです。ね。もう、そういう、感じた時には、もう、心に宿った時なんです。ね。または、そこに難儀を感ずるならば、その難儀こそ、胎内に宿った、いうならば、子供のように思うて、それを大切にして行くと、その難は難ではなかった。おかげをいただく、いうなら、力を頂く、御徳を受ける元であったというおかげが頂けて、そこから、限りない生み出す働きという事にもなってくる。ね。私は、そこに基づき、そこに気づかせて頂くことだと思うですね、信心とは。ね。いよいよ、心を大切にしていかなければならない。いよいよ、豊かに、しかも大きくしていかなければならない。神様は、このような大きなおかげを下さろうとしておるのだから、その神様の思いに、沿い奉らなければいけない。
昨日の御理解に、えー、大坪栄司郎、もうその、大坪の大という字を、大きく頂いて、ね。坪、栄四郎というのを、小さく、ね。その、大、そのおおという事こそです、ね。神様は、こういうおかげを下さろうとしておる、思うておられる。だから、その大という字に、釣り合うた、栄であり、四郎であるというおかげを受けなきゃならん。それには、いよいよもってです、ね。心を万代までの宝にしていく事の精進。仏教で言う、なるほど、三宝様であるけれども、それに一つ加えて、私共が、ね。心を宝にして行く、その心を加えて、仏法僧と、自らの心という事になる。ね。
私共の住まわせて頂いておる入口に、四方庵と私が書いたものを、おー、高橋さんという方が、彫刻、彫って、額になって上がっております。勿論四方と、四方という風に書いてありますけれども、ね。これは、私は、普通では、四という字を大変嫌います。けれども、金光教では、四という事を尊びます。ね。例えば、拍手も四つです。なんでも、四つという事が大事。ね。ですから、結局、四方という事は、八方の基礎であり、土台である。四方八方に広がるというでしょう。ね。八波の光りが、いうならば、私は、昨日、初めて聞かせていただいたんですけれども、金光大神のお言葉の中に、世界を包みまわすというお言葉があるそうですね。世界を、金光大神の信心によって、教えによって、世界を包みまわすというほどしのおかげ。四方八方である。ね。いうならば、ね。世界津々浦々に和賀心時代を作る。十三日へのおかげを頂きたい。もう、どこの誰であろうが、いうならば、簡単にして優艶な御教えである、誰でも分かることの出来れる、合楽理念をです。言うなら、和賀心を目指しての信心をです、ね。そこに、人間の幸せの土台というものが出来る。お金があり、ものがあり、地位があるとしてもです、ね。心が、段々年をとるにしたがって、淋しゅうなってくるならばです。ね。いうなら、見苦しい年寄り方をしたんでは、人間の幸せはありえない。金も、物も、地位も何でも要りましょうけれども、それは、ね。心というものが土台になっての、それでなからなければならんという事。ね。その心という、その土台に、幸せの土台になるものを、言うなら、末代までの宝にもなるものをです。私共が、いよいよ、大切にしていかなければならない。お話しを頂いて、はぁ、なるほどそうだと心に感じたときには、もう、それが、心に宿ったのも同じである。それを育てる、大切にして行く生き方。どういう難儀、困ったというような事であっても、それは、良いものが生み出される事のための、いうならば、おかげである。おかげが宿ったと思うて、その難儀を、困ったことだ、困ったことだと、もう、それこそ、もう途中で出したいというような、ね。中絶をするような信心ではなくて、それを、育て上げて、生み出すおかげを頂かせてもらう。なるほど、難儀ではなかった。こういう玉のようなおかげを、御徳を生み出すことのためであったと分からせてもらう。ね。全てが神愛としての頂き方。心は、万代までの宝。ね。教祖は、そこのところを、腹は万代までの宝と言う風に、ここでは、説いておられますですね。どうぞ。